傘と霙

「あ、降ってるじゃん」

 聞き馴染んだ軽やかな声にオーボエから口を外して振り向くと、希美が立っていた。

「最悪。みぞれ、傘持ってきた?」

はい、と売店の自動販売機のコーンポタージュを差し出されて、反射的に受け取る。希美の手には自分の分の小さいペットボトルのミルクコーヒー。
寒がりの希美は先週からずっと鼻をすすり、マフラーも早めに巻き始めた。中学時代から変わらないピンク色のマフラー。変わらない希美が大好きで少し笑ってしまう。

「うん」
「えー、さすがみぞれ、私忘れちゃったよ〜」
「午後から雨降るってニュースで」

窓の外を見ると曇り空から雨がパラパラと降って窓に斜めの滴を作りながら濡らしていく。

「朝ニュース見てないよー」
 
はぁ、と私の横の机の椅子にうな垂れるように座って携帯のニュースを見ながら困り顔を作る希美。

「みぞれは残って練習するよね?」
「えっと、」
「そんじゃ、夏紀と帰ろかな」

行動が早い希美はゆっくりな私が答える前に自己完結して立ち上がる。ハッとして離れていく希美の腕の裾を掴む。

「ダメ」
「え?」

きょとんとする希美に私はもう一度言う。

「夏紀と帰っちゃダメ」
「えーなんでー?」
「……私も帰る」

立ち上がってオーボエを丁寧に片付け始める。
自分でも優先順位が変なことはわかってる。今大きな大会もないし、何より私にとって大好きな友達と一緒にいることは最も優先順位が高く、あらゆることも優先度が低くなってしまうのだ。それは集中していたことをあっさり放っぽり出してしまうぐらいに。

「みぞれ、練習いいの?」
「うん、希美と帰るから。傘、ないんでしょ?」

希美と帰るから、という私にとって絶対的な理由に希美自身は気づいていない。そういえば、自分では当たり前のことだと思ってたけど、黄前さんに先輩って独特な判断基準しますよね、と指摘されたことがある。

「う、うん、なんか悪いかなーって」
「いや、希美と帰りたいから。用意できたら、希美のクラス行くね」
「みぞれ優しい!わかった、待ってるね!」

去り際に希美は私の頭を撫でて、また軽やかな足取りで教室から出た。

「雨すごいね」
「……寒い」

校舎の玄関に出ると、凍てついた空気が肌に刺さった。

「ほら、みぞれ、ちゃんとマフラー巻かなきゃ」

急いできたから緩く結ばれたマフラーを希美が巻き直すと、丁度鼻までマフラーが埋もれた。

「帰ーろっ」

自然と右手を差し出されて、手を伸ばして握る。昔からの習慣。こんな内気な性格の私だからか、希美は今だに5才の女の子のように接する。

「うん」

大粒の雨が重力に従って落ちていくところを観察しながら傘を開くと、ひょいと引ったくられる。

「持つね」

背の高い希美が傘を持つため、握った手が離される。寂しくなった手を下ろしたくなくて、傘を持った希美の腕に自分の左手を絡める。雨の湿気に希美のシトラスのコロンが混じってふんわりと鼻腔をくすぐる。

「最近みぞれ、ひっつき虫だね〜、冬だから?」

希美はくつくつ笑う。その笑顔につん、と胸が切なくなる。

「もう離したくない、から」
「ん?」
「…なんでもない」

思わず本音が出てしまった。小さい声で聞き取れなかった様子の希美はゆっくりと耳を私の唇に近づけるように寄りかかる。バレないように慌てて絡んだ手を引っ張る。

「希美、どこか寄って帰ろ」

咄嗟に出た言葉。希美の驚いた顔を見て、しまった、と思うけど、無駄な勇気なしで言えた自分に自分でも驚く。

「珍しいね、みぞれから誘うなんて!雨降ってるけどどこか寄ろっか!」

希美は無邪気な笑顔で嬉しそうに言うのにホッとする。
そう、私はかなりの臆病で、誘って断られるのが嫌で誘うのが苦手。でも今日は偶然の幸運だ。嬉しくて思わず笑顔になる。すると希美は空いてる手で頭を撫でてくれた。

「可愛いなぁ〜」

胸が嘘のように拍動を打つ。自分の顔はすでに紅いのだろう。もっと撫でて欲しくて頭を差し出すように下を向く。甘えんぼさん、好きな声が上から聴こえた。

私はきっと希美が必要なんだよ。本当に希美がいるんだよ。そう叫びたい。
いっそ、希美の傘になりたい。
そうすれば、希美が結婚するまでずっと一緒に居られるのに。

様々な溢れる想いがまるで転んだ亀のように、ぐるぐると諦めきれずにあがいてしまう。

「どこ行こっか」

希美は呟く。私は耳が良い方でどんなに騒がしくても離れていても希美の声を聞き分けてしまう。
希美のその質問は私にとって重要ではなかった。私の目的地はいつも希美がいるところだから。希美の肩に頭を乗せて目を瞑る。希美の優しい温もりと匂いがじんわりと伝わった。
耳をくすぐる雨の一音一音が結びつき、綺麗な旋律で聴こえ出す。美しくて、自由で楽しくて、それでいて切なく甘い。このメロディをどこかに書き留めておきたいな。題名は何しよう。

「どこ行こっか」

私の小さな声は雨の音に溶けこんだ。雨の滴はいつしか凍り、霙となって、傘に落ちていく。その光景を見ながらふと言葉が頭に舞い降りる。

ーーーアメオトメ

「ん?みぞれ、なんか言った?」
「いーや」
「なーにー、教えてよー、嬉しそうな顔しちゃって!」

雨音女。これにしよう、私は小さく笑った。


END☔️

2016年11月3日 pixiv掲載

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