シェルブールのビニール傘(創作百合/女医百合/#3)


「うそ、雨!」

21時45分。その日は自分の担当患者の病棟急変やらオンコールの緊急内視鏡やら桃谷結菜は目の回るが如く働いた。漸くすべてを終え帰ろうとしたところ、天気予報を見事に反したこの仕打ち。窓を不規則に叩く大きな雨滴に力が抜けて溜息をつく。泣きっ面に蜂とは見事にこの状況に当てはまる。

最近付き合い始めて同棲しかけの天満のタワーマンションまでは地下鉄で約20分。最早病院近くに住んでいる自宅に帰る方が被害は少ないだろう。近くとはいえ桃谷のアパートまで徒歩5分。この雨の中ノーガードで走るのは億劫だ。かと言って職場に泊まるの負けた気がして悔しい。今日は雨が凄いから自分の家で寝るね、と恋人にラインを打つと、待っていたかのように即座に返信がくる。

『結菜いるの?私も残ってるから一緒に帰ろ。医局?迎えに行く』

さっきまでの鬱々とした気分がただの字面だけで一気に光が差す。我ながら単純だなと思うが、頬は素直に緩む。初めは幼馴染の妹の様な存在だったが、だんだんそれを超えて自分の中で大きくなり、好きになっていくのを桃谷は自覚していた。
結菜という呼び名も幼馴染歴20年以上も経て改まって変化した。今更だし名前で呼ばれるのが恥ずかし過ぎて、やめてほしいと懇願するつもりだったが、今まで数十年も呼ばれた「桃」が苗字の一部のため恋人にそう呼ばれるのが違和感あると天満が主張し、軽い話し合いの末自分が折れてそう呼ばれることになった。因みに「桃」と呼ばれていた理由は、私は全く記憶になかったが、天満が果物の桃が好きで呼びたかったからだそうだ。幼い頃のあだ名の付け方はそういうものだろうか。

「おまたせ。雨、降ってるね」

この時間の医局は人が少ない。当直の人や、学会前の準備の人、手術や処置のレポートなど残業している人が数人程度だ。

「結菜も朝傘持っていってなかったよね。んーどっか適当に男から借りてこようかな」

携帯で誰かに連絡しようとする天満を慌てて彼女のスマホを持っている右手を掴んで制す。天満のこの美貌だ、必ずや1人はここまで傘を届けてくれる、それどころか車でマンションまで送ってくれる人が現れるだろう。それは何となく、いやかなり自分にとっては嫌になる状況だ。それをこの恋人にどう婉曲に表現するか、こめかみに少し汗をかきながら考えるが、言葉を発する前に天満は察してくれた様子で携帯を下ろし優しい顔になる。その顔を見て、この子に察しされる年上の自分が恥ずかしい気分になった。

「ごめん、つい。濡れるの嫌だし、コンビニで傘買おっか。桃はこういう無駄遣いするの嫌じゃん?だったら使えるところは使おうかな、とか思っちゃった。嫌だったよね?」
「そりゃあ、雨のたびに毎回コンビニ傘買うのは嫌だけど。でも今回は仕方ないし。それより、呼び出した子があーちゃんのこと密かに好きな男の子だったらやっぱりヤダよ」
「ごめん。弟呼ぼうか?それともタクシー?」
「こんな時間にマサくんに悪いよ。あーちゃんもウチ来なよ。今日泊まろ?それならタクシーいらないし」

ね、と腕を引っ張って説得する。こういう時給料が余裕出てきた今となっても父子家庭だった影響で貧乏癖が出てタクシーが中々乗れない。大手の病院の経営までしてる天満の一族とは金銭感覚が違う。

「んー、そうね、今日は仕方ないし。結菜の家に泊まる」

コンビニエンスストアで500円弱の値段を払い、ビニール傘を1本購入した。

「コンビニにおけるビニール傘の売り上げってどんな感じなんだろうね?」
「一定数天気予報見ない人もいるから結構なものじゃない?ほら、おいで」
「おいで、って。年下のくせに背だけ伸びてー」
「はいはいおチビちゃん拗ねないのー」
「チビじゃないんですけど」

自分は一応160台何ですけど。愚痴りながら手を引っ張られ傘の中に入れられて肩を組まれより密着させられる。仕事が終わり、さっき香水を振りかけたのか、ふわりとムスクの匂いが首元から漂う。ここぞとばかり密着させるところが慣れてるなぁ、と見知らぬ彼女の過去の恋人達に嫉妬する。彼女は170cmの上にヒールが元々好きなため身長が上乗せされ、付き合ってから桃谷も少しでも対抗出来るようにヒールをよく履くようになった。
傘を片手に持ちながら肩を引き寄せて、あからさまに屈んでこめかみにキスをする背の高い年下を少し睨む。あなたより身長低くて悪かったね、と、ここ職場に近いから止めてください、の両方の意味を込めて。睨んでもカラカラ笑われて立場ない。それどころか、

「ねぇ、もう!なんでそんなに可愛いのー!?」

逆効果だった。肩をまた寄せられて背の高い鼻先を首筋に擦り付けられる。安価な値段を考慮して透明な傘を選択してしまったのは誤った。夜とはいえ、雨粒を除けば完全に丸見えなのだ。

「んっ」

くすぐったくて、身をよじる。続いて生温かくて柔らかな感触が首筋に触れる。そのままそれが下に滑り落ちていき、背筋にぞくりとした感覚が走り、警報が鳴る。これ以上はダメだ。変なスイッチ入ってしまう。右手で彼女の首をグッと押して強制的に剥がし見上ると、その小さな顔にある切れ長の目は明らかに欲情を含み、また口元は薄い笑みを浮かべていた。顔が一気に熱くなり小さく唾を飲みこむ。その顔が桃谷が好きなことは桃谷自身知っていたし、彼女も勿論知っていた。

「確信犯!」

興奮で生理的に潤んだ目で再度睨み不平不満を一言に込めて訴える。こうスイッチが入ったら彼女の一挙一動が気になるし、もっと触れてほしいと思ってしまう。しかも外で。どう責任取ってくれるのだ。

「何のことかなぁ?早くお家帰ろうね」

天満も引き際はわきまえている様で、からかう様に肩から腰骨を手でなぞり、上手い具合に灯った火を消さない程度に煽ってくるものの、それ以上はエスカレートしなかった。そのまま頭を桃谷の肩に寄りかかりながら2人はそのまま桃谷のマンションに向かった。

マンションに到着すると、傘を畳み、水気を切りながらマンションのオートロックを解除する。桃谷の部屋は11階の角部屋に位置した。

「何だかんだ、役に立ったね。ビニール傘」
「こういう日は大活躍する奴だからね」

性格上几帳面に傘骨に巻きつけながら天満はドヤ顔で言う。

「勿論、結菜との距離を縮めるアイテムとしてもね」

彼女はいつもこんな事考えてるのだろうか。頭を抱える。
11階に着いて、角部屋まで並んで歩く。部屋の前に着き、桃谷が鍵を差している無防備な背中とうなじを晒した時、既に2人の我慢比べは天満の負けが決定した。その無防備さを前に天満は我慢のピークを迎え、そのまま覆いかぶさる様に抱きつく。

「え?ちょっ、とぉ!」

振り向こうとした瞬間、唇に柔らかいもので塞がれる。思わず鞄を落とし鈍い音がした。後ろから刺す視線の元を探ると、情欲と加虐心に潤む色素の薄い瞳が迎え、吸い込まれそうだった。

あぁ、喰べられそう。

本能的に察知すると同時にこの美しい恋人に支配されていく事実と興奮でそのまま軽く達してしまいそうだ。天満の速い鼓動と浅い呼吸が自分と同期する。背中を叩く速い鼓動は相手の興奮が伝わり嬉しい。油断して開いた唇の間から舌が入り込み、桃谷の舌を絡めとる。舌の縁をなぞり、絡めて軽く啜り、離れてまた求める。無味でありながら、その味と感触は癖になる。
気がついたら自分が餌を乞う雛の様にもっともっととねだる様に啄ばみ、求めてしまっている。無邪気に他人を誘ってしまう妖艶な瞳に自分の恋人ながら怖いと思いつつ、ずっと自分だけを見ていてほしいと願ってしまう。気持ちいい。いや気持ち良すぎる。
天満の方が好きになるのが早かったが、今は自分がどんどん天満に嵌り、深く好きになってる。もう、抜けれない。そう自覚した瞬間、頭がチカチカし、身体が無意識に跳ね、思わず一瞬の矯声を上げるが、天満にすぐに手で抑え込まれる。脚に力が入らなくなり中の筋肉が脈打ちながら何もないものを締め付ける感覚を覚えた。足が言うこと聞かず、そのまま鍵を差したままのドアノブに持たれようとするが、天満が素早く背後から支え体重を完全に委ねる形となった。

「う、そ」

信じられず息を切らしながら1人呟く。脚の間から溢れて下着を濡らしていく感覚。明らかに雨じゃない粘り気のある水滴が床に滴り落ちる。こんな場所で、こんなに簡単に。
イッちゃった?、と耳元で囁かれ、またブルッと震える。酷い恥ずかしさに怒る気も失せてしまう。

「…あーちゃん、もう少し待てなかったの?」
「ごめん、待てなかった」

ごめんなさい、と紅潮した端正な顔が頭を垂れる。さながら悪戯してしまった大型犬であざとい子、と思う。これじゃあマトモに怒れないじゃない。可愛すぎて。
ドアノブを握る手を上から握られて、漸くドアを開く。どうやら解錠はしていた様子だ。身体が触れられた面から体温が熱く、もっと素肌に触ってほしくて仕方なくて、熱ある目差しで訴えるが、意地悪な幼馴染に緩やかな動作で焦らされる。緩やかとはいえ、その手は確実に脱がす気満々だ。

「続きは中で。ね?」

一旦スイッチが入った頭はその声にすら歓喜する。頬にキスされ、そのまま引きづられるがまま中に吸い込まれ、ドアが閉まる。ドアノブに引っかけていたビニール傘が重心を失い倒れていった。


END.

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