神楽坂にて。(かえみず/デレマス)


 春から夏へと変わる季節。桜は散り、新緑深まる季節を迎えた。日射しが草葉に乱反射する中、爽やかな風が肌に心地よい。夜になると、昼間の熱かった気温が一転して、薄着だと肌寒く感じるようになる。

PM8:46

その日は丁度楓と瑞樹は同じ番組収録があった。瑞樹が先に仕事が終え、楓は追加の別撮りの撮影で本日の仕事が終了となった。その撮影も終わり、スタッフの挨拶を済ますと、急いで支度をし、瑞樹の楽屋まで急ぎ足で赴く。扉を開けると、その彼女は椅子に座りながら次の収録の台本を読んで楓を待っていた。姿を見かけるだけで楓の頬が緩んで足取りが軽くなる。

「お待たせしました〜!」
「あら、楓ちゃん、お疲れさま」

誰も見てないことをいい事に椅子ごと後ろから思いっきり抱きしめる。

「もう、甘えん坊ね」

瑞樹はもたれ掛かるように頭を楓の肩に預けると、前に回された手を指で摩る。楓は鼻筋が通った鼻を瑞樹のうなじに擦り、まるでアロマ効果があるかのように匂いを嗅いだ。子供過ぎないクロエの上品な香水だ。暫くその状態に落ち着き、軽く充電すると、ゆっくりとお互い離れる。こうしている間も時間はだらだら過ぎてしまう。瑞樹となら全然構わないと楓は思っているが、それでもまだやるべきことがあり、そのためには僅かな時間ももったいない。この日の為にとっておきのお店を予約したのだ。

「今日は神楽坂行きませんか」
「あら、良いわねぇ」

神楽坂は新宿区にある街であり、神楽坂通りを中心に無数に路地があるのが特徴だ。石畳の敷かれた路地が続き、住宅街の中に雰囲気のある隠れ家のような料亭や居酒屋が沢山潜んでいる。都会ながら、閑静な昔ながらの風景もそこには見られるのだ。いつもは情報通の瑞樹がお店を探すのだが、そのお店は楓がふらっと一人で入って大層気に入って瑞樹に紹介した場所であり、一緒に行ってから2人の秘密のスポットとなった。
番組放送局から外に出ると、仕事の疲れのせいか、爽やかな風が体に心地よく染み込んで行く。少し寒いな、と瑞樹は感じていると、以心伝心したかのように隣から手を握られた。可愛い年下の行動に思わず笑うと、人通りの少ないその場所で、軽くキスされた。楓はいつも自然と様になる行動するから不思議だ。しかもタイミングも絶妙だ。恐らく考える前に動いてしまうタイプなのだろう。綺麗な顔が満足気に微笑むのを見て、瑞樹はああ、今夜は早くお酒が飲みたいわねぇ、とそう思った。

「神楽坂まで」

タクシーに乗って、目的地まで送ってもらうことにした(お互い所謂売れっ子であり、その辺は問題はないようだ)。手は繋いだまま端と端を座り、すれ違っていくライトの灯りが消えない都会の風景をぼんやりと見ながら、無言で隣の存在の居心地の良さに浸る。楓は窓の外を見ながら定期的に重なった手を弄りつづけた。バックミラーで運転手さんの視線を感じたが、お互い気にせず窓の外を見続けた。

「着きましたよ」

タクシーに降りて迷路のような石畳の路地を歩いていると、住宅地の並びの途中にそのお店はあった。神楽坂の路地裏にひっそり佇む一軒の居酒屋。その築60年の古民家は3階建であり、1階、2階はBarスペース、3階は屋根裏の完全個室となっている。もう行きつけであるので、私達のことを知っている馴染みの店員は楓を見ると、直ぐに静かに3階の個室へ通された。一応芸能人への配慮もしてくるのだ。風情溢れるランプの薄暗い光の空間の中を突き進み、3階に辿りつくと机を挟んでソファーが置いてある。ふたりはようやくソファーに落ち着くと、ふぅ、と一息ついた。おしぼりを持ってきた店員に飲み物を尋ねられ、メニューを見ずに答える。

「とりあえず生ビールね」
「私も同じのを」

仕事終わりのビールの美味しさに気づいたのはいつだっただろう。20才になった頃はビールは苦くて苦手だった。20才半ば辺りから気がついたら、疲れた時の一口目が最高に美味しいことに気づいて離せなくなってしまった。

「「乾杯」」

楓の顔が生き返ったかのように良い顔をする。その後、御通しが来て、食べながら取り留めのない話で盛り上がる。お腹が空いていた分、箸は進んだ。濃いめの味付けがビールに芸術的に合い、舌が喜ぶのを感じた。楓も瑞樹もお酒は強い方だ(楓は桁違いに強い)。飲むペースも早い。お通しを食べ終わる頃にはもう既に一杯目のビールは飲み干していた。瑞樹は楓にメニューを渡す。

「次は何にする?」

日本酒、ウィスキー、ハイボール、和ワイン、焼酎、梅酒、和リキュール、カクテル。

楓はカメラの前の姿と負けないくらい目を輝かせながらメニューを捲っていく。その表情はまるで宝石を開ける少女のようだ。視線の先はやはり彼女の好きな日本酒。

「美山錦を」
「じゃあ、私は林檎のリキュールを」

店員は食事を置き注文を受け取るとさりげなく去っていく。

「ふふっ、瑞樹さん、何可愛いの頼んでるんですか」
「えー、ミズキ、可愛いしぃ?フルーティなのしか飲めなーい♩」

人差し指を唇に当ててぶりっ子をする瑞樹に楓が笑う。不意に楓は前のめりになり机の上に置いてある滑らかな小さな手を重ねて、吸い込まれそうな瞳で瑞樹を真剣に捉える。瑞樹は胃のあたりが一気に掴まれるのを感じた。

「確かに可愛いですねぇ」

額を彼女のそれに付けると、静かに唇を合わせる。突然の一瞬の行動に瑞樹の顔が微かに紅くなる。

「もうっ、楓ちゃんたら」
「ふふ」

重ねた手を繋ぎ直して、隙間なく指と指を絡めて繋ぐ。また再度唇を合わせる。楓が舌で唇をなぞり、ゆっくりと瑞樹の舌を絡める。

「んぅ・・・」

瑞樹は絡み合った手を強く握る。お酒のせいか、瑞樹がいつも以上に甘えてきて素直なのを楓は感じて口角を上げる。キスひとつにも離れたくないという感情が伝わる。片手で輪郭に手を添えて、より深く口付けるが、階段から足音が聞こえ、楓は不意に離れる。少し寂しそうな瑞樹に楓はウィンクで続きは後で、と答える。タイミング良く扉の外からノックが聞こえて、店員がお酒と料理を持ってきた。前菜の盛り合わせに、シーザーサラダ、スモークサーモンとマッシュポテトに鴨ロース。次々と皿が置かれ、香ばしい香りに食欲が湧いてくる。美味しいご飯を咀嚼し、大好きなお酒と共に胃に流し込み、大好きな人と共に幸福感を得る。なんて幸せな瞬間なんだろう。こういう瞬間の為に一生懸命働いて、生きている気もするのだ。

「うーん、幸せです」
「そうねぇ、ねぇ、楓ちゃん知ってる?」
「はい?」
「いい食べ物を食べると腸の中から幸せになるホルモンが出て幸せになるんだって」
「あぁ、通りで、幸せなはずですね。本当に幸せを噛み締めているんですね」

か細い手で楓は何杯目かの日本酒を飲み干す。楓のお酒の伝説は数知れない。お店中の全てのお酒を飲み干したとか、飲み会が荒れて地獄絵図のような状態のなか唯一いつもの表情でお酒を飲み続けたとか、又飲ませ上手であり、断れず男女問わず潰される被害者が多数いたりだとか。1番注意したいのは彼女が酔ったらタチが悪いのだ。記憶に彼女の数々の粗相を思い出すと今となっては笑えるものもあるが、笑えないものもある。今日は瑞樹とだけなので気を遣わずお酒を消費しているが、逆に言えば瑞樹なら何してもいいと思っているのだ。締めのお茶漬けを食べて一息ついていると、楓が不意に立ち上がる。

「瑞樹さん、トイレ行ってきます」
「うん、大丈夫?」
「へーきです」

心配だけど、平気という時は経験上平気だろう。携帯で時間を確認すると、悠に0時は超えていた。終電がなくなっていく時間帯。つまり、このパターンは楓のお泊まりコースだ。わかっていたけどね、と愚痴り、何となく手持ち無沙汰になって瑞樹は楓の飲んでいる日本酒に手を伸ばして、口を付ける。

「あら、美味しい」

何ていうのかしら、とお猪口を傾ける。色は微かに桜色の綺麗な液体。観察していると、人の気配が背後からし、両肩を掴まれて耳元で囁かれる。

「ぴんく、れでぃですよ」
「本当?」
「ふふ、本当です」

猫のように軽く頬を頬ずりしてくしゃりとした笑顔のまま楓がフラフラと席に戻る。座ると酔った時の癖なのか、新しいおしぼりでひよこを作るおしぼり芸を披露した後、ポンっと机の上に投げる25歳児。帰る?、と瑞樹が聞くと、楓は素直に頷いた。

「会計済ませちゃいました。」
「あら、ありがとう、今度は私が払うわね」
「いいですよ♩さぁ、帰りましょう、瑞樹さんのおうちへ♩」
「もう、初めから泊まる気満々でしょう」
「あったりー」

お店から出ると酔いのまま瑞樹の手を握って路地を歩く。ふらふらと、ゆらゆらと。この瞬間が楓はとても好きだった。人生は短く、夜も短い。隣の彼女はそんな一瞬の時間に敏感だ。放っておくとと直ぐに不安になるし、直ぐに離れてどこか行ってしまいそうだ。だから、この一瞬でさえも大切にしないといけないし、必死で繋ぎ止めないといけない、この時間を閉じ込めておかないといけない。

「瑞樹さん」
「なぁに、ちょっと!楓ちゃん真っ直ぐ歩いてよ!」

腕を瑞樹の肩に回して、体格差を利用して狭い路地裏の人影の少ないスペースに引きずり込む。そして、古びた電柱に瑞樹を押し付け、長い両手を瑞樹の頭の真横に置いて閉じ込める。

「あいしてる」
「な、なによ、体重かけないで、重いわよ」

きつく、きつく瑞樹を抱きしめる。端から見たらもう酔っ払いそのものだったけれど、行動は止められない。目の前の大好きなお姉さんに甘え尽くしたい気分で一杯なのだ。瑞樹の隣は自然体で入られて、楽であった。最近は後輩が出てきて、尊敬され、指導する機会も増えてきたが、高垣楓の根本は末っ子気質で、甘えたがりなのだ。

「ひゃっ、あっ・・・!こんなとこでダメよ、楓ちゃん!」

悪戯心で耳を軽く舌で舐めると、瑞樹が真っ赤にして過敏に反応する。つい魔が差して手が胸元に伸ばしかけたのにさすがに瑞樹が睨むが、子供のように笑う楓に毒気を抜かれる。本当に、天然なのか、計算なのか未だにわからないところが計り知れない。

「瑞樹さん、好き、大好き」
「・・・はいはい、楓ちゃん、ほら、ちゃんと立って!ハイ、ピシッと」
「はい?」

瑞樹の支えがなくなって、かろうじて立つが、体幹が揺らぐ。モデルをしていただけあり、楓は真っ直ぐ立つと背が高い。瑞樹とは10cm以上差がある。瑞樹が背伸びして楓の首に両腕を回して引き寄せて、唇を寄せる。楓は手を細い腰に回す。お互い瞼を伏せて、酔いに任せてキスをし続ける。路地裏は運よく誰もいなかった。瑞樹は艶のあるため息をつくと、一筋の汗を流し、潤んだ目で楓の左右色の違う瞳を見つめる。その奥の隠れた情動とそれを必死に抑える理性を垣間見て楓は白い喉を鳴らし唇を舐める。悪趣味であるが普段余裕な大人が必死になる姿を見るのが楓は好きだった。これもお酒のお蔭。本音と本性が出る魔法。

「大好きよ、私のかわいいかわいい楓ちゃん」

昔から好きな声が耳元で囁かれ、楓の涼しい顔の奥に燻っていたものが燃え上がる。強く華奢な体を抱きしめた後、楓は強く手を掴んで引っ張り、路地から抜け出す。大通りに出ると丁度そこにタクシーが通りかかった。

「まだ寝るのは早いですね、瑞樹さん」
「そうねぇ」

シンデレラは0時で魔法が解けるが、大人の夜はアルコールの魔法がかかったままで、まだまだ続いていく。
もっと酔いたい、よい宵を過ごしたい。夜深く、酔い深く、欲深く、心を融け合わせて、君と一緒にこの魔法がかかった瞬間をどこまでも過ごしたい。この青春を。

(お疲れ様です)

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